第5回 大原・御宿ゴルフコース

素材の創造

ハウジングとゴルフ場

千葉県南総地区は、もともと都心に近いわりには開発が遅れ、さらに過疎化と高齢化が進み、県の盲腸とさえ云われていました。そのため1974年に県を中心にこの地域の活性化を目指したプロジェクト「千葉県夷隅郡地区開発事業」が発足し、事業は1976年に千葉県(企業局)と西武グループとの共同事業(第 3セクター)としてスタートしました。テーマは、地域の特性を活かした観光レクリエーションと定住型分譲地を融合した欧米タイプの街づくりです。

 

海を臨む大原御宿グリーンタウン

 

ゴルフ場はレクリエーション施設の核として分譲地全体を見下ろす高台の一角に計画され、そしてここにどのようなゴルフコースが出来るのかは、すべてコース設計家の井上誠一氏に委ねられることになりました。氏は過去に数々の名門コースを手掛けた日本のゴルフコース設計の第一人者であることは読者の皆様にはすでにお分かりのことと思います。

しかし、氏はこのプロジェクトでコース設計をするに当たって、実際に大きな 2 つの課題を抱えることになります。1 つは「パブリックコース」の位置づけです。そしてもう1 つはゴルフ造りに適さない「急峻な地形」でした。

はじめに、私のコース設計の師である井上先生が、この 2 つの課題を克服するためにどのようにコース造りに取り組んだのか、その経緯からお話ししたいと思います。

 

パブリックコースとは

大原御宿の場合、特にゴルフ場の運営母体である西武グループ(発注者)側から「どのようなゴルフ場を目指すのか」その展望テーマと具体的な要望が明確には示さていませんでした。そのためパブリックコースの設計経験が少ない井上氏は設計コンセプトを絞りきれずに悩んでおり、打ち合わせの度に黙考しながら「僕はパブリックコースを造ったことがない」と洩らし困惑していました。

井上氏のゴルフコース造りのプロセスは、大きくプランニングとデザインに分かれます。そして設計及び企画段階ではプラニングが主体となります。プラニングの重要性について「プランニングがしっかりしていなければいくらデザインが良くてもいいコースにならない」と述べています。ここでいうプラニングとは一般的にマスタープランとも呼ばれ、ルートプランを含めた全体の骨組み作りを指します。そしてこのマスタープランづくりの核となるのがコンセプト(コース設計指針)です。そのコンセプトについても「ゴルフコースは、創設者(オーナー)の意図によって変わってきます。ビギナーからアベレージ・ゴルファーまで楽しめるものにするか、チャンピオン・シップコースにするかで設計も変わってくるのです。それにはもちろん気候、交通の便、土地の条件なども絡んできます。設計者にとってもっともいやなのは精魂込めて設計したものを理解されず批判されることです。」と述べ、設計者としての心情を吐露しています。当時、私との打ち合わせの度に先生が「西武の人はプレーヤーをお客さんと呼ぶ、本来ゴルフ場にはメンバーとゲストしかいなはずだが」と首をひねりながら不思議がっていた印象がよみがえってきます。

ここで参考までに、少し当時のゴルフ場運営形態とその実情に触れてみましょう。

日本のゴルフ場の運営形態は大きくプライベートコース(社団法人、株主会員、預託金)と、バブリックコース(事業、ムニシパル、リゾート)の2つに分けることができます。比率は、メンバーコースが 80%以上を占め、残りがパブリックコースで現在もほぼ変わりません。因みにアメリカではゴルフ場の 80%がパブリックで日本とは比率が逆になっています。この数字からも両国のゴルフ文化の違い、つまり歴史と国民のゴルフに対する考え方の違いを考察することができます。さらに日本の場合、パブリックコースには料金の高い高級タイプ(会社運営)と比較的低料金の庶民タイプ(公営)にカテゴリーが絞られています。特にホテル併設のリゾートコース(川奈H.G.L等)も含めるとその位置づけは必ずしも明確とは言えません。因みにムニシパルとは公営ゴルフ場を言います。

 

話を戻しますと、言うまでもなく大原御宿は上述のリゾートパブリックの範疇に入ります。当然、対象ゴルファーはビジター(地元ホテルゲストを含む)に限られ、さらに上級者からアベレージ、ビギナーまであらゆる技術レベルと年齢層が含まれます。つまりどのようなゴルファーが来るのかもわかりません。そのためコース設計の基本条件となるファクター、例えば距離の規模、難易度等の設定が絞り切れずに迷われていたのです。

このような経緯を経てプロジェクト発足8年後、「レベルを問わず誰もが楽しめる」新たなタイプのリゾートパブリックコース、『大原御宿』が誕生することになります。

 

地形再生とニューデザイン

次にオープン当時、入場者を驚かせたという大原のニューデザインについて触れてみたいと思います。

9番ホール

1980 年、遅れていた工事が始まりました。そして先生の最初の指示は「樹木は残さなくても良いので、とにかく全体を、平らに仕上げてください」でした。具体的には平らになるまで多くの土量(360 万立方米)を動かし今の地形をそっくり変えてほしいという要望です。当時のゴルフ場工事の平均土工量は 100 万から 150 万立方米程度が一般的でした。当然、ゴルフ場造りに多少の経験がある工事担当者は驚き、先生の考えを理解で出来ず困惑したようです。当時の工事規模としては期間も含め大規模工事になるからです。しかし後でわかることになりますが、先生はこの時すでに、シーサイドコース造りのイメージが固まっておりました。そのため、まず山をとり除いて平らにした後、砂丘を造形する地形改造をしなければ良いコースが出来ないと判断していたようです。

前回の南山の項でも述べましたが、氏のコース造りの信念は「自然破壊はゴルフ場にあらず」です。しかし必ずしも大規模工事が自然破壊につながるとは限りません。上述のように明確な都市づくりのテーマに基づいて時間と資金を惜しまず工事を行いうことで土地はよみがえります。災害への安全性かつ活用の有効性を考慮した地形変更は自然保全の概念一つでもあり、新たな付加価値を創り出す『素材の創造』の考え方に繋がります。因みにアメリカでは緑化をメインテーマとして、広大な荒蕪地や砂漠の一部をゴルフ場状付き分譲地やアミューズメント施設に変貌させる計画が多くみられます。この場合は水源及び灌漑施設等を中心としたインフラ設営を中心とした大規模工事になります。

先生は県の仕事という特殊性もあり、設計を引き受けていましたが、常々「安く造れという考え方の施主の仕事はやりたくないから、断っちゃう」とも言っており、もし工期や工事費に制約が付いていたら、当然、自身の信念に反するため設計を途中で辞退していたかもしれません。

ここで大原御宿のコースデザインのモチーフになっている「リンクス」について少し触れてみることにします。ゴルフ発祥の地と云われているスコットランドでは海岸と内陸地の境を「リンクス」と言い、このリンクスランドと呼ばれる、海岸沿いの砂丘地帯にあるゴルフコースを総称してリンクスと呼んでいます。言うまでもなくリンクスとゴルフコースは同意語です。そしてリンクスには、荒々らしい波しぶきが上がる海岸、遠くに海原を望む穏やかな原野、そして切り立った岸壁など、コースから海を見ることができないリンクスも含めその特性によって 5 つのパターンがあるとも言われています。もちろんすべてのリンクスの共通ハザードが目まぐるしく変わる現地の気象と、魔女にも女神にもなる気まぐれな風です。そして現地ではリンクスのことを「神が創ったコース」と崇拝し、地域のステータスとしています。

 

コースの特徴

1982 年に開場した大原御宿ゴルフコースは、千葉県南房総の御宿海岸から 2.5 キロ内陸に入った、標高70mほどの高台に位置する、全長6862ヤード、パー72のパブリックコースです。

1番ホール

コースは、前述したように急峻な山岳地形を大規模な土工事によってフラットに、さらに造形によって緩やかな丘陵地に仕立て直され、海側から内陸に向かってコース全面を吹き抜ける風を意識してイン・アウトとも左回りそして途中でクロスさせホール毎にその向き、強さが変わるウイングハザードを意識した英国インランド(内陸)のリンクスタイプに仕上げられています。しかし残念ですがコース内からは直接海を望むことが出来ません。そしてホールは美しい形状の大小のマウンドでセパレートされ、16 番を除くすべてのホールのティーからグリーンを見渡すことができ、砂丘の形状をした 110 個バンカーの巧みな配置が視界に飛び込んできます。

大原の特徴にもなっているこのバンカーは形も大きく一見するとその威圧感によって難しそうに見えますが、実際には掘り込み(深さ)も浅く、砂面も受け勾配になっているため難易度はそれほど高くありません。つまりプレーヤーに優しいパブリックコースの配慮がなされています。そしてグリーンからは振り返ってもこのバンカーはマウンドのウエーブ曲線に隠れのその姿は見えません。

言うまでもなく井上作品の特徴は、コースを見て「美しい」「趣がある」そしてプレーをしても「飽きない」「安心する」など、プレーヤーにとって心地よいスリルと爽快感が大きな魅力となっています。大原御宿はさらに「優しい」の要素を加えた「コースにはOBが少なく、初心者には易しく、一般ゴルファーにはある程度の戦略を考えさせ、結果的に大たたきをしていないのになぜかスコアーがまとまらない」、言い換えるとレベルを問わず、誰でもプレーが愉しめ、あわせてリベンジ心を失わせないゴルフコースになっているのです。ゴルフコースの「優しさ」と「易しさ」は違うのです。

 

バンカーの蠱惑(こわく)

海岸線特有の陰影を浮かびあがらせるバンカーシルエット。このリンクスデザインのポイントになっているのが「羽を開いた蝶」の形をしたバンカーです。特に先生は、このバンカー(デザイン)に強いこだわりを持っていました。

手稿を見るかぎりこのバンカーの構想は、工事の10年前から熟考されていたことがわかります。手稿には「リンゴのかじり痕」をヒントに、歯型によって変わる断面パターン等幾通りものモチーフ画が描かれています。そして自身自宅で粘土を粉ね、図案に基づいたバンカ ー模型を作り立体造形への試行錯誤を繰り返していました。この構想がまとまった時「ちょっと冒険したかもしれないが、こういうデザインのバンカーは、日本のどのコースにもないはずだよ」と自慢げに最終イメージ図(写真)を見せてくれました。続けて「ここはパブリ ックコースだから、ビジターに対して何か、ホールの印象が残るインパクトが欲しかった」とも言っていました。

特に 17 番ホールのフェアウエイ両サイドにはこのようなバンカーが 10 個配され、このバンカー群がビジュアルインパクトとなり、今では大原のホールの代名詞にもなっております。そしてこのようなバンカーデザインパターンは、すでに葛城GC、南山CC に使われており、新たなラインを基調としたバンカー造形へのこだわりが晩年の井上作品のニューデザインの特徴になっていると言っても過言ではありません。

昨今、外国人設計者による「アメリカンクラシック」をテーマにしたゴルフ場の改造工事が多く行われています。特にエッジのラインをギザギザにして自然になじませるバンカーリングの造形手法は、40 年前から先生によってニューデザインとして使われていたのです。

 

下図は、井上氏のプライベートスケッチ帳(手稿)に、書かれていた多くのバンカーデザインの中の大原御宿と春日井のイメージ図です。

 

 

氏の門外不出のノートには、アイデアの着想からデザインの完成までの試行過程が、詳細に明記されています。まさにコースデザインの玉手箱です。

 

井上誠一氏設計・監理 最後のホール

13 番ホール 510 ヤード パー5

 

斯界の泰斗

在りし日の井上誠一氏(昭和56年11月26日没)享年73歳

オープン当初、大原御宿を訪れた多くのゴルファーが「ここのコースは本当に井上誠一さんが作ったコースなの?」と聞いて帰る人が多かったようです。大原御宿のコースデザインの印象は、今までの井上誠一設計のコースになじんでいたゴルファーのイメージを変えるほどインパクトが強かったようです。

今ではメンバーコースとは違う南国シーサイド特有の開放感と、「優しく難しいコース」でのプレーの心地よい緊張感と爽快感が、ゴルフワンダーランド「大原御宿」の魅力となって今日に至っています。

そしてコース開場の1 年前、13 番ホール(写真)のグリーン造形工事中にコース設計家・井上誠一氏は、コースの完成を見ることなく療養中の熱海の病院で亡くなりました。享年 73歳でした。そのためこの大原・御宿ゴルフコースが氏の最後の作品(遺作)となっています。

氏は生涯40 箇所のゴルフコースづくりに携わっています。そして手がけた作品には駄作がないと言われ、日本ではすべてトップクラスの格調高い名門コースとして名を馳せています。

 

 

フェニックスに囲まれたクラブハウス

南国風でシンプルなクラブハウスは、氏へのメモリアルとして亡くなった時の年齢 73 歳に合わせ、標高 73mの高台にフェニックスに囲まれて佇んでいます。

 

 

 

井上誠一設計ゴルフコース