「素材の洗練」
龍ヶ崎カントリー倶楽部は、茨城県南部、都心から車で1時間ほどの東京都市圏に位置するゴルフ場です。1958 年開場の全長7,302 ヤード、パー72、コースレート74.8 のゴルフコースです。
そして、開設当初から井上誠一氏の設計図面、及び関連資料を大切に保管している、云わば『ゴルフ設計家・井上誠一ミュージアム』でもあります。
井上誠一氏のコース設計は、戦前の那須ゴルフ倶楽部(昭和11 年開場)を手始めに、戦後は登戸、西宮、龍ヶ崎、鷹之台と続きます。龍ヶ崎の設計を引き受けたときは 40 代後半で、当時氏のコース造りに対する意欲は特に旺盛で、ゴルフ場設計家として非常に油の乗った状態でした。特に龍ヶ崎のグリーンデザインの美しさは当時からその評価が高く、同時にイメ ージが定着し、その後50 年間この2 グリーンシステムが日本のゴルフ場の主流となりました。
コースの特徴
龍ヶ崎の特筆すべきその魅力は、緑豊かな松林を背景に自然の起伏をそのまま生かしたコースデザインと、その中に二つのグリーンを巧みに包み込んだ美しい造形ラインだと言われています。
国際的な競技に対応すべく、龍ヶ崎は開場当初から7000ヤードを超える距離と110個のバンカーを有し、多彩で高度な戦略性を堅持しています。さらに各ホールは変化に富んだバリエーションを有し、何度プレーを重ねても新鮮味を失わないレイアウトになっております。特に9番、10番、11番は「龍ヶ崎のア ーメンコーナー」と呼ばれ、その中でも特に有名なホールが10番ホール(写真)といえましょう。距離は419ヤードでバンカーはなく、グリーンは砲台になっています。左右にうねる谷間に配されたこのホールは、独自の戦略性(リスク&リワード )の高さが評価されており、設計者である井上氏自らも「私のハザードの持論がお分かりいただけるホールの一つ」と話しており、最も好きなホールの一つに挙げています。
先ごろ、あるトーナメントの開催を打診された際、このホールの樹木の一部を撤去する条件が提示されたため、倶楽部側がそれを拒否して辞退したエピソードが話題になりました。 まさに「井上ミュージアム」の真骨頂です。
私が龍ヶ崎をはじめて訪れた時、全体の雰囲気がどことなく関西の廣野ゴルフ倶楽部に似ているなという印象を受けました。言うまでもなく「廣野」は世界のベスト 100 選の常連ゴルフ場で、設計者はイギリス人のアリソンです。廣野は兵庫県の林間丘陵地に、龍ヶ崎は関東平野の田園地帯にあり、どちらも日本の原風景に溶け込んだ四季の景観が美しいゴルフコースです。
ここで少し、井上氏が生前「私の先生はアリソンだよ」言っていた、廣野の設計者アリソンという人物に簡単に触れてみたいと思います。
アリソンとの出会い
1931年、当時20歳の井上氏は川奈でアリソンと運命的な出会いをします。氏は自身の病気療養のため川奈ホテルに逗留していました。そこで偶然、ゴルフ場工事のアドバイスに来ていたアリソンの仕事ぶりを見ることになります。『静岡県の川奈ゴルフ場に新しい富士コースを造ることになり、イギリスから設計士がやってきていた。私は彼の仕事を見ていて「これは面白そうだ。ボクもやってみよう」と思い立った。』とコース設計家を志した当時の心境を述懐しています(南山CC会報より)。
そして井上先生は、自身英語が堪能だったこともあり、すぐに現場でのアリソンの通訳兼助手をつとめます。そしてアリソンの帰国後は、すぐに霞ケ関CCの工事に携わり、そこで残ったアリソンの助手のペングレースから「本場のゴルフ場造り」の手ほどきを受けることになります。さらに当時のイギリスの最先端のコース設計学(理論)を学ぶために、独自に外国の専門書を取り寄せ読了しています。結果的にアリソンを通して、「近代ゴルフコース設計の父」と呼ばれるイギリスのコルトの設計概念が井上氏に伝授され、氏によって日本のゴルフ場設計が体系化され、今日に至ったと言っても過言ではありません。
≪チャールズ・H・アリソン(1882~1952)≫
イギリスのランカッシャー生まれ。
オックスフォード大学卒業後、英国ゴルフ設計界の巨匠ハリー・コルトと出会い、彼のパートナーとしてコース設計に携わります。1930 年東京ゴルフ倶楽部の招聘により来日し 4 か月半ほど滞在しています。日本では東京 GC (朝霞)、霞ケ関 CC(東)、川奈ホテル GC(富士)等の設計及び改修アドバイスを行いました。本場の設計理論を日本に紹介した彼は今日でも「日本のゴルフコース設計の父」と呼ばれています。
井上ライン
話を龍ヶ崎に戻しましょう。井上先生は「ここは樹木が少ないので、造形によってグリ ーンやバンカーを美しく仕上げる。」と言って、新たな造形美を取り入れたコースデザインを試みています。
「自然が造りだす雄大な造形美」という言葉もありますが、ここでの「造形」とは人工的に景観を修景するランドスケープのことを言います。空間を創造する彫塑やモニュメントの作品は造形(デザイン)芸術とも呼ばれています。そしてこのランドスケープデザインの基線となるのが、「描線」と呼ばれる造形ラインです。つまり、この基線を繋ぎ合わせ曲線にし、さらに曲面にすることで立体的な輪郭が出来上がります。そして背景となる景観との融合を図ります。この手法を経て、プレーヤーがコースを見て「美しい」「安心する」「趣がある」そして「飽きない」など、様々な印象と感慨を与える井上作品が出来上がります。氏の作品のすべてにこの「井上ライン」が使われているのです。
龍ヶ崎では、柔らかいウェーブのストリュームラインが取り入れられていますが、先生は常に「描線」は「シンプルで、品のあるライン」でなければならないと言っていました。
2グリーン
次に、簡単に日本の2グリーン導入の経緯と、先生のデザインコンセプトについて触れてみましょう。まず2グリーンの考え方は、いつ頃どのような発想で生まれたのでしょうか。
日本のゴルフ場は、もともと1グリーン(1901年神戸GC)からスタートしています。昭和初期までは、ゴルフ場のグリーンは、芝ではなく突き固められた砂だけで出来ていました。いわゆる「表面サンド」の1グリーンです。ところが東京GCの駒沢から朝霞への新設(移設)工事で、アリソンの提案もあり初めてコース全面に洋芝(ベントグリーン)が採用されることになりました。完成したコースとグリーンは、緑の芝生が非常に美しく「東洋一」ともいわれ、ゴルファーの絶賛と垂涎の的になりました。しかし、このエバーグリーンもその年の夏の暑さと冬の霜柱で枯れてしまいました。当時の管理技術での復旧、そして年間を通してのベント芝の維持は難しく、そこでとりあえず夏場に強いコーライ芝のグリーンをもう一つ造ろうということになりました。つまりテンポラルグリーンを作り、サブグリーンを持った1グリーンにしようと考えたようです。テンポラルとは、補助および予備という意味で、言うまでもなくコースデザイン上は、グリーンとしてもまたプレー上も中途半端な位置付けです。当然、はじめは我慢していたプレーヤーからも、徐々に不満の声が上がるようになります。そして、ならば初めから、2グリーン自体をグリーンデザインとし完成させ、ともにフェアな条件にしたらどうかという着想が生まれました。つまり2つのそれぞれのグリーンに独立制をもたせ、違った戦略ルートを用意する。そしてプレーヤーには時期に応じてそれぞれのメイングリーンを使い分けることで、 36ホールのゴルフの楽しみを与える。これが先生の2グリーンシステム導入の基本概念です。
今後、ゴルフ場は2グリーンか1グリーンのどちらでゆくべきか、その是非が問われることになりそうです。それぞれに意見は大きく分かれているようですが、どちらかというと2グリーンに対する風当たりの方が強いようです。2グリーンの発想は、前述した時代背景とその必然性からが生まれました。そしてデザイン化され、その作品価値が認識されてきたのです。しかし、究極の目的は、プレーヤーに年間を通して良い状態(クオリティー)のグリーンを提供できるかどうか、なのです。そのためには、今後の地球温暖化に伴う異常気象への管理対応も考慮しなければなりません。だだ、先生自身はもともと「1グリーンで済めばそれにこしたことはないと」話しており、一貫したワングリーン推進派でありました。
グローバルデザイン
また先生は、独自の洞察力と先見性をもったグローバルデザインの実践者でもあり、常に斬新なアイデアとウィットに富んだコースコーディネーターでもありました。
例えば、ティーグラウンドをみてみましょう。開場当時は、日本のゴルフ場のティーはバック・レギュラー・フロントの二つないし三つに分けて造られ管理されてきました。しかし、龍ヶ崎では1面に統合したいわゆる「滑走路ティー」を採用しています。この形状は、日本では1972年に軽井沢72ゴルフに、アメリカ人コース設計家のR.Tジョーンズsr.が前後50mの矩形ティーを造ったことで注目され話題になりましたが、その14年前、龍ヶ崎には既に同様なティーが造られていたのです。
グリーンもしかりです。それまでの多くが形状は砲台、面積は小さめ、表面はボールが止まりやすい受け面に仕上げるパターンが多く、いわゆるグリーン単独デザインでした。 龍ヶ崎の場合は当時から、グリーンだけでなく周囲のバンカー回りから背景まで含めた、全体修景の調和を考える複合デザイン、今でいうグリーンコンプレックスの考え方を取り入れています。その意味で龍ヶ崎は、グローバルデザインのゴルフ場ということができます。
同様な工夫はグリーンのアンデュレーションにも見ることができます。例えば3番のグリーンは表面の起伏が三段状になっています。この三段グリーンのポイントは、ただ乗せるだけではなく、乗せる位置を限定し、グリーン攻略の難易度をあげるのが目的です。「グリーンの中にグリーンがある」という発想です。当初は形状が珍しくかつ難しいため、トーナメント中継等で賛否あるいはその是非をめぐり話題になりました。今では面積を広めにとることで多くのゴルフ場で取り入れられ、難しいグリーンの代名詞にもなっています。同様なグリーンとしては、戦前に造られた川奈・富士コースの11番のグリーンが良く知られています。
左の図は、井上氏が書いた3番ホールのグリーン詳細図です。図中のぼかしを入れた部分がピンポジションの位置で、両グリーンとも3カ所が想定されています(原図にぼかしはなし)。
図面には、グリーンだけでなく周囲のバンカーのおさまり、排水経路、マウンドの位置などが網羅されています。この図面の線すべてが柔らかいタッチの「井上ライン」で書かれています。当然この段階で先生の頭の中にはグリーンの姿が出来上が っていたのです。
井上誠一ミュージアム
当時(1978年)の小谷支配人によると、
「井上氏は、死去されるまで、氏の直筆になる設計図はもちろん、メモに至るまでいっさい外部に出るのを拒否されたそうである。1957年秋ごろ、整理中の遺品の中から、25年間もの長い間秘蔵されていていた龍ヶ崎カントリー倶楽部の設計原図とガリ版刷りの設立計画書が見つかった。どちらも当倶楽部の輝かしい誕生を証言するまたとない資料である。特に設計原図は、美しさの点でも比類を見ないものであった。設計原図については、たまたま兵庫県の廣野ゴルフ倶楽部内に建設されたJGAゴルフミュージアムが開館するに当り、建設関係者から遺族に対して、井上氏の設計原図を館内に展示したいとの要望があり、その時龍ヶ崎のものも所望されたという。しかし正子未亡人の厚意により、当倶楽部で末永く保存することになった 。」
(資料:龍ヶ崎カントリー倶楽部30年史より)