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第4回 南山カントリークラブ

素材の舞曲

南山カントリークラブは、5 年の歳月をかけて 1975 年に開場した全長 7,034ヤード、パー72、コースレート73.1 のゴルフコースです。計画地は、名古屋市内から東に20キロ程離れた丘陵地に 35 万坪の広大な用地が確保されており、その用地は 1968 年の愛知CCの移転問題が持ち上がった当時に手当されていた場所でもありました。

南山CC クラブハウス看板

井上誠一氏は、73歳で亡くなるまでの晩年に、南山、葛城GC、瀬田GC、大原御宿GCの4つのゴルフ場の設計を行っています。特に東海地区では、中京財界の重鎮だった佐々部晩穂(くれほ)さんとの関係ですでに4箇所(愛知、桑名、春日井、伊勢)のゴルフ場の設計をしており、特に南山CCは当初から自らの作品の集大成にしたいという強いこだわりを持って取り組んだゴルフ場でもありました。氏が67歳の時の作品になります。さらに南山にはオーナー側から特別なテーマが託されていました。それは毎年、名古屋で開かれているトーナメントの代替地となる、本格的なスケールをもった開催コースを造ってほしいという要求でした。

 

コースの特徴

通称『南山』のコース景観を一言でいうと「明鏡止水」、三遠(平・高・深)の眺望は18の山水画」を見るがごとくです。実際のゴルフコースは尾根と谷が交差する複雑な地形の中に18ホールを巧みに取り込んだルーティングが施されています。さらに全ホールがセパレートされ、散在する自然の渓流、滝、巨岩などがコース随所にハザードとして巧みに配され、趣の異なった個性的な空間を創り出しています。

因みに「三遠」とは、麓から山頂を仰ぎ見る高遠、手前の山から後ろの山を眺める平遠、山の手前から山の後ろをのぞき込む深遠を言い、山水画における遠近表現の 3 大技法ともいわれ、主景に対する立ち位置や視点を変えながら三つの視点から一つの画面内に捉える感性対応です。ここ南山には自然美観を生かし、如何に地形を傷つけずにゴルフ場を取り込んだ、氏の信念に基づくコースデザインの神髄を見ることができるのです。

また、コースには後年「難しい南山」を楽しむプレーヤーによって名づけられた、“ああ無情”、“気分一新”、“万里の長城”などのホールの愛称からも、先生独自の「遊び心」を垣間見ることができます。

オープン直後、南山の評価はその難易度から「難しくて面白い」と「散々だ」の二つに分かれていたそうです。それを聞いた先生はニコニコ肯いていたそうです。先生は英国流に「ハンディー24 以下のプレーヤーでなければコースに出るべきだはない」という考え方を持っていました。

また氏の図面には設計段階から、トーナメントに対応するためのテレビ中継用の配線やカメラ位置まで考慮されていましたが、ギャラリー動線の不備や関連施設用の用地確保(保安林規制)の断念から、南山には現在もトーナメントは移っていないようです。

 

自然破壊はゴルフ場にあらず

南山CC開場後の1980年頃からバブルの兆候が表れ始めました。全国で一斉にゴルフ場開発が始まります。まずゴルフ場用地が物色され、会員権販売を中心にゴルフ場の計画自体が投機の対象となっていきます。実際には 1985 年から 1991 年の間に約 500 箇所のゴルフ場が出来ています。そしてこの無秩序なゴルフ場開発は、当然自然破壊及び環境変化への懸念から社会問題化されていきます。結果的に国が規制(1989 年開発規制法)することになりましたが、この間先生は、ゴルフ場乱立の危惧と開発による自然破壊を懸念し、コース設計家として「自然を壊してまでもゴルフ場を造るべきではない。ゴルフは、もともと自然原野を使って発展してきた。自然を壊すようなコース造りは、もうゴルフでもなんでもない」と警鐘を鳴らし続け、その一貫した姿勢は終始ゆるぎないものでした。

もっともその先生の考えに反するようですが、南山には工事上の大きな問題があったのです。

南山の場合は特に用地の 50%以上が岩盤地質でした。そのため土工事の規模が大きくなることでの自然破壊の危惧と景観保全への懸念、つまり「自然を壊さずに如何にゴルフ場を造るか」の難題に突き当たっていたのです。そのためにはまず用地に余裕をもたせ、工事範囲を絞り込むことが重要でした。山肌を削らずに景観の保全を図り、さらに周囲の自然条件に合った治水、緑化等を優先した計画を立てるためです。同時にこの難工事を推進することのできる経験と技術力を備えた施工業者を選ぶ必要がありました。そして工事は、先生が厚い信頼を寄せる大成建設が行うことになります。

1973 年に3年の年月をかけて厳しい法規制をクリアしたゴルフ場工事がようやくスタ ートします。そして2年後には工事前と変わらない自然景観の中に、新たな自然庭園としてのゴルフ場が姿を現しました。このようにここ南山には「日本の自然を壊さないコース造り」に取り組んだコース設計者の信念が、コースデザインとして今も生きているのです。

J.ニクラウスがイーグルをとった16番ホール(俱楽部ホームページより)

 

今回は、設計から離れ、井上先生の工事に対する取り組む姿勢とその指導理念を探り、実際にコースがどのように造られたのか、その役割を果たした現場の「井上ブレーン」の話をしたいと思います。

 

コース造りの匠

一般的にゴルフ場工事は、全体の元請となるゼネコンを中心に、①準備工、②防災工、③ 土工事、④造形工、⑤芝張工の順に進められていきます。そして工種の中で最も重要なのが ④の造形工事になります。造形工事は、コースの顔となる設計デザインを現地に具現化するコース造りの核となる重要な作業です。そのため作り手は誰でもよいというわけにはいきません。そしてこの造形作業を専門的に行う職人を「シェーパー(SHAPER)」と言います。

シェーパーは実際に重機による造形作業、さらに人力による「カンナ及びトンボかけ」と呼ばれる表土の引きならし成形、さらに芝張及び播種までの最終指導を行います。そのためゴルフコースは「シェーパーの良し悪しで決まる」ともいわれており、先生も「形を作るのは現地の職人だよ。僕じゃない」とも言っています。

日本ではじめてシェーパーという言葉とその存在が認知されたのは、1932 年日本初の本格的ゴルフ場建設工事が行われた東京GC(朝霞)からです。工事関係者はそこで招聘した設計者アリソンの助手であるペングレースの存在を知ることになります。アリソンは、実際には図面だけ書いて 4 か月ほどで帰国してしまうのですが、そのあとシェーパーとして残 ったペングレースが一年をかけてコースをすべて仕上げています。出来上がった「東洋一」と称賛されたコースを当然設計者であるアリソンは見ていません。しかし倶楽部の歴史には設計者の名は残りますがシェーパーをはじめ、実際の作り手は年史の記録に載ることも、クレジットタイトル(映画の巻末に流れるスタッフ紹介)にながされることもありません。生涯裏方として「黒子に徹する」姿勢が求められるのです。

 

井上ブレーン

中央が井上誠一氏(左側が筆者) 1977年瀬田

南山の工事は、大成建設が行うことになります。前述したシェーパーは古木営治(古木造園社長、故人)という人です。古木さんは大洗から葛城までずっと先生についていた専属シェーパーです。先生は「古木とは阿吽の呼吸だよ」と言っており、完璧なまでの信頼関係が見てとれました。しかし当の古木さんは、現場では「仕上がり具合が良くて当たり前、悪くてやり直し、決して良くできたとは言ってくれない」と、先生の視察が一番怖く緊張したと話しており、まるで自分自身が「まな板の上の鯉のようだった」とも言っていました。また大成建設は、ゼネコンとして今まで先生のゴルフ場の半分以上に携わっており、特に名古屋支店には、春日井、伊勢、瀬田など先生との仕事に携わっていたスタッフが多く、ゴルフ場工事(受注)のための専門チームまでできておりました。スタッフはもともと、その経験を活かして「井上チーム」と呼ばれ、その後彼らは東京本社に移り、全国のゴルフ場工事に携わっていきました。

このように南山では先生が最も信頼できるオーナー(佐々部氏)と、安心して任せることのできる工事スタッフが揃っていたのです。

 

インスペクション

コース設計者が行う現地指導をコースインスペクション(INSPECTION)と言います。実際の作業は、設計着手前の事前調査も含め、工事着手後の設計図面に基づいた工事進行状況、芝育成時の現地チェック及び実地指導になります。

設計図を見ながら現場を指導する井上氏

先生は、実際の工事が始まると事前に現場から送ってくる進行具合の状況工事写真を楽しそうに、かつ入念にチェックしながら現地に行くスケジュールを立てます。そしてスケジュールには、2泊3日の場合では必ず 1 日予備日を入れます。その理由は、仕事をやり残すと工事が止まり現場に迷惑が掛かるという先生の配慮からです。

そして現場での指導は常に厳しく先生とシェーパーとの真剣勝負の緊張感が張り詰めます。そして「現場には、工事がわかる人間だけいればよい。金魚のフンはきらいだよ」と言って、単なる見学者が居るとご機嫌ななめになりました。

しかし、現場を歩きながら、皆が緊張していると「いいアイデアがなかなか出ないよ」と言ってスタッフを和ませます。さらに芝張り作業のおばちゃんや作業員にも優しく「どこの芝?」などと気軽に声をかけます。楽しく仕事をするというのが先生のモットーであり、厳しさと、優しさのメリハリがはっきりしている先生の訪問を皆、意外と楽しみにしていました。

 

J.ニクラウスと16番ホール

この16番ホールは、言うまでもなく南山のシグネチャーホールです。

ここでは元ヘッドプロの石川一夫氏から聞いたこのホールのエピソードを紹介しましょう。

1984 年 4 月、南山CCにジャック・ニクラウスが来て競技をしたことがあったそうです。その時、彼のマネージャーに各ホールのピンの位置を教えたところ、16 番の位置だけ少しずらすように申し入れてきたそうです。そこでその理由を聞いたら、ニクラウスにイーグルをとらせるからと言ったそうです。ご存知のように 16 番は池のあるホールですから、支配人はゲームを面白くしようとして、あえてピンポジションを難しく設定していたようです。そこで提案通りピンの位置を動かすと、16 番に来たニクラウスはセカンドを 7 番アイアンでぴたりと寄せ、難なくイーグルをとったのでマネージャーは自慢そうな顔をしていたそうです。そのあとニクラウスは「南山は自然の美しさを生かしたレイアウトと共にあらゆるレベルのゴルファーが堪能できる魅力を持った心憎いコースだ」とコメントを残しています。

 

《井上誠一・言語録》

先生は自らのゴルフ人生を振り返り、倶楽部の創刊会報誌の中で次のように回想しています。

 

わたしの傑作 井上誠一

『人生、何が機縁で、どっちに転ぶかわからない。私とゴルフ、いやゴルフ場の設計もひょんなことから始まった。医者になろうと頑張っていた旧制高校時代、いまでいう日本脳炎にやられ、脊髄を悪くした。「治療と運動には腰を使うゴルフが一番よい」と聞かされ、叔父らに連れられてゴルフ場に行ったのが、生涯ゴルフにかかわりあうきっかけだった。当時、静岡県の川奈ゴルフ場に新しい富士コースを造ることになり、イギリスから設計士がやってきていた。私は彼の仕事を見ていて「これは面白そうだ。ボクもやってみよう」と思い立った。昭和四、五年の二十一、二歳のころだったろうか。

とっかかりの仕事は埼玉・霞ケ関の西コース、何日も山小屋に泊まり込み原野を駆け回って建設に取り組んだ。いま思えばあれもこれもなつかしさでいっぱいだ。それから四十数年、手がけたコースは三十を超えるだろう。みなさんは「あの人の造ったのは名門コースばかりだ」おっしゃってくれるが、名門かどうかはともかく、あらゆる条件を考え、全力をあげて取り組んだことは確かだ』

『(中略)私はかつて欧米のコースを回り、それらも参考にして日本で傑作を造ってみたいと念願してきたが、南山はある程度その念願を果たしてくれそうだ。

医者になるつもりが、一転してコース設計屋になった私だが、友人、知人から「キミはいろいろ楽しいゴルフ場を造ってくれる。おかげで医者にかからなくてすむよ」と、よくいわれる。そんな時「下手な医者になるより良かったなー」と、いまさらのように思う。その上自分も楽しめるのだから……』

(1976.9発行 南山カントリークラブ会報から)

 

名古屋は、井上先生にとって特にお気に入りのところでした。当地には30年来の知己の人も多く、個人的にも特に愛着が強かったようです。

「江戸っ子」の先生は、名古屋人の気質が東京とよく似ていて、自分とは非常に相性がいいと言っており、特に佐々部さんのことを「佐々部のおじいちゃん」と呼ぶなど全幅の信頼と尊敬の念を持っていたようです。また南山の工事は、私が先生の書生をしていた時期と重な っていたため、同行することで設計図をどのように現場で生かしていくか、先生の実践指導にも触れることで私なりに貴重な経験を積むことができました。